9/16/2021

志手界隈案内③桜ケ丘聖地1

 変わる桜ケ丘聖地、そのきっかけは?



 古い写真を整理していたら、2018(平成30)年11月9日撮影の左の写真がありました。桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)の正門です。これを見た瞬間、自分の中の「もやもやした感じ」「違和感」といったものが解消されました。
 何のことか。左の写真にある「桜ケ丘聖地」の「表示板」す。左側の門柱にかかった古びた木製のものが見えるでしょうか?

 右の写真は2021(令和3)年4月撮影です。左の門柱にある「看板」というか「表札」というか。それが立派になっています。桜ケ丘聖地の前を散歩しながら、漠然と何か違うなという感じは持っていました。表示板の付け替えに気づかなかったのか、忘れてしまっていたのか。自分でもよく分かりません。老化の現れでしょうか?

 さて、陸軍歩兵第七二連隊が大分市に置かれたのが1908年、明治41年です。連隊の駐屯とともに墓地も整備されました。それが桜ケ丘聖地(旧陸軍墓地)です。門を入ると、案内板があり、これまでの経過が簡単に書かれています。

 名前の通り、墓地全体を桜の木が囲むように植わっていました。桜だけでなく、大きな木も茂り、夏などは、古ぼけて、鬱蒼(うっそう)とした、いかにも墓地公園といった雰囲気でした。

 それがここのところ、少しづつきれいに再整備されてきているのです。何があったのか。契機の一つとなったのは
1人のドイツ人の墓参でした。

 (興味のある方は「続きを読む」をクリックして下さい)

 右の大分合同新聞2020(令和2)年11月14日付朝刊の記事を見てください。
 写真中央に写っている人物がカーステン・キーゼヴェッタ―大佐。大佐が敬礼をしている墓に眠るのが、ユリウス・パウル・キーゼヴェッター。大佐の曽祖父の弟だそうです。

 駐日ドイツ大使館勤務となった大佐は第一次世界大戦中に日本で死亡した曽祖父の弟の墓を探し、桜ケ丘聖地にあることを突き止めました。

 
 そして、2019(令和元)年12月、大佐はユリウス・パウル・キーゼヴェッターの墓に初めて参りました。大分収容所で亡くなったのが1917(大正6)年5月でしたから、実に102年の時を超えた墓参となりました。

 大佐は桜ケ丘聖地を管理する大分県の知事宛てに手紙を書き、親族の墓が百年以上の長きにわたり維持されてきたことのお礼を述べました。それが、上記の記事にある20年11月の墓参につながります。

 ※左は捕虜のキーゼヴェッタ―の死を記した陸軍省俘虜情報局の日誌(アジア歴史資料センターのウェブサイトより)です。

 話は少し逸れますが、なぜ、11月の公式墓参になったのかに触れておきます。疑問に思ったので、ドイツ大使館の日本人職員に尋ねたところ「大使館武官室では、日本各地のドイツ兵の慰霊祭を(11月のドイツの)『国民哀悼の日』にちなんで行っており、(大佐が11月に)大分に伺いましたのも、そのためでした」との回答を得ました。
 ドイツでは11月に戦没者を慰霊する日があるのを初めて知りました。

 さて、11月の墓参はドイツ大使館主催の公式墓参と位置付けられ、大分県は大佐の墓参に合わせ、桜の記念植樹を計画することになりました。この時桜ケ丘聖地に植樹された2本の木の間には「日独友好の桜」と書かれた案内板(右の写真)があります。

 大佐は2021(令和3)年3月にも桜ケ丘聖地を訪れ、曽祖父の弟の墓に参りました。その時にこの案内板の除幕式が行われました。大佐は案内板を前にあいさつし、大佐夫妻と関係者とで記念写真も撮りました。植樹した2本の桜(ジンダイアケボノ)も順調に育っているようで、いくつか花を付けていました。

 桜ケ丘聖地では新しい木が植えられるとともに古い木が整理されました。古い桜の木は倒木の恐れもあり、危険だということで大分県が専門業者に頼んで伐採しました。

 下が伐採前の桜ヶ丘聖地の全景写真(2020年4月撮影)


 写真右側に白い点が並んでいるように見えるのが墓石。1918(大正7)年夏のシベリア出兵で出征し、シベリアでの戦闘で命を落とした第七二連隊の兵士たちの墓です。(「シベリア出兵」については改めて書きます)

 この中に、ドイツ人のキーゼヴェッタ―とクラインの墓があります。第一次世界大戦は1914(大正3)年7月に始まり、日英同盟を結ぶ日本は翌8月、ドイツに対して宣戦布告をしました。日本は中国・青島にあったドイツの要塞などを攻め、4700人を超えるドイツなどの将兵を捕虜としました(大正三年乃至九年戦役俘虜に関する書類 陸軍省)

 捕虜は日本国内に移送され、大分のほか、福岡、久留米、松山、姫路、大阪、名古屋、東京など各地に開設された合計12の収容所に入ります。収容所はのちに整備・統合され、最終的に6カ所になりました。

 大分収容所にいた捕虜のうち、キーゼヴェッタ―とクラインの2人が病気となり、大分で亡くなりました。そして、当時の陸軍墓地(現桜ケ丘聖地)に埋葬されました。

 

 上の写真の丸印で囲んだのが2人の墓です。写真は2020年2月に撮影したものですが、その後2人の墓はきれいになりました。それが下の写真です。


 老木の伐採により墓地の印象も随分変わりました。上の写真2枚が2020年春、下の写真2枚が2021年2月です。






 さっぱり、すっきりしたという感じですが、桜の風景を見慣れた人間からすると、少々寂しいものになりました。

 キーゼヴェッタ―大佐の墓参により、半ば忘れられたような場所だった桜ケ丘聖地に再び関心が寄せられ、再整備が進むことはいいことですが、古びた味わいといったものが失われていくのは幾分惜しい気もします。


 (注)大分連隊の開設を1907(明治40)年とする資料もあります。陸軍の告示により、大分などの連隊司令部の設置と事務開始が同年10月1日からとされたことに基づきます。実際に兵舎ができ、将兵が駐屯を始めたのが1908(明治41)年となります。

 

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